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【マーク・ロスコの作品と、『赦し合い』の対話】

 

『私は人間の根源的な感情を表現することにしか興味はありません。
悲劇、恍惚、運命といった感情です。

そして、私の絵に向かい合った時に泣き崩れる人々が多くいるという事実からも、私がそのような人間の根源的感情を伝えているのだということがわかります。

私の絵の前で泣く人々は、私がその絵を描いた時に体験したのと同様の宗教的体験をしているのです。

そしてもし、おっしゃるようにあなたが[私の絵の]色彩の関係にしか感動していないのなら、それは的外れなのです。』

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先日買った本、『ユダヤ人と近代美術』より、マーク・ロスコの印象的な言葉を抜粋しました。

このロスコの言葉を読んだ時、
ふと、わたしはあるドキュメンタリー番組を思い出しました。

それは、『ヒトラー・チルドレン』というドキュメンタリー番組。

親族にナチスの戦犯をもって生まれてきた人々の、他者からも自己からも責められる苦悩を描き出した作品です。

その作品のなかに、こんなワンシーンがあります。

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アウシュビッツの所長であった祖父を持つライネル・ヘスは、
ホロコースト生存者の孫であるエルダド・べッグと共にアウシュビッツ強制収容所を訪れ、多くのユダヤ人の遺族・親族と対面する。

 

そんななか、ヘスに向かって『よく私たちの前に立てますね。』『罪の意識はあるのですか?』と、泣きながら厳しい言葉を向ける人もいる。

 

だけど、
ある一人の男性……正に〝ホロコーストの生存者その人″がヘスに歩み寄り、

 

『わたしはここにいたんだよ。
だけど君はここにいなかった。
君がやったわけではない。(だから罪の意識を持つ必要はない。)』

 

と言い、ヘスを抱きしめるのです。

 

ヘスはその時のことを振り返り、
『感情をこらえきれなかった。強い衝撃と共に、強い幸福感が広がった。』
と話します。

 

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マーク・ロスコは、10歳の時にロシアからアメリカへ亡命してきたユダヤ移民です。

 

第二次世界大戦以前に亡命していたため、虐殺が始まったときに祖国にはいなかった。

 

だけど、自分の生まれた土地で、
自分の友人や隣人が次々に殺されていった事実。

それが彼にとってとても大きな衝撃だったことは誰でも想像できることでしょう。

 

彼はホロコーストの話題に直接言及したり、絵の題材にすることもなかった。

だけど、明らかにロスコの作品にはこの出来事への思いがつよく反映されている。

 

そして、同じ歴史を体験してきた人や、その子孫が彼の絵と出会う。

人々は、ロスコの絵を前にしたとき、歴史的事実と彼の思いのどちらも受け止めることになる。

そして、現実に起こってしまったことの悲しみと共に、ロスコの祈りにも似た思いを受けとめ、涙を流すのでしょう。

 

…戦犯の孫であるライネル・ヘスとホロコースト生存者の邂逅は、
ロスコの絵の前で涙を流す人々とロスコの絵と同じ関係性を持っていると思います。

【ロスコの絵 対 鑑賞者 = ホロコースト生存者 対 ナチス戦犯の子孫】

こんな図式が頭の中に広がりました。

 

アウシュビッツの話題を決して口にしなかったロスコはきっと、
絵でもってたくさんの人と赦し合い、慰め合うことを望んでいたのだろうと思う。

 

直感的にそう考えたわたしは、
喫茶店で読書をしていたにも関わらず、涙が溢れて止まらなくなってしまいました。

 

どんなに互いに苦しくとも、各々が実践可能な方法で対話をし、赦し合っていく。

 

そのことに真摯に取り組み続けたロスコの作品にはものすごい説得力があるし、それは単に歴史的に優れた絵画だから、というだけでは説明のつかない崇高なものだと思います。

 

ホロコーストといった、歴史的に大きな出来事を理解することや、偉大な画家を理解するときは上辺の事実だけを見ていてはいけない。

 

あくまでもその時代に生きていた人たちの『個人的な感情』を、わたしは知りたい。

 

この本にしてもこのドキュメンタリー番組にしても、
歴史的事実ではなく個人の人生と思いにしっかりと焦点を当てた良い作品です。

歴史を理解する上でとても役に立っています。リンク掲載しておきますね。

 

ヒトラー・チルドレン→http://www.dailymotion.com/video/x1jhqyo_%25E3%2583%2592%25E3%2583%2588%25E3%2583%25A9%25E3%2583%25BC-%25E3%2583%2581%25E3%2583%25AB%25E3%2583%2589%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25B3-%25E3%2583%258A%25E3%2583%2581%25E3%2582%25B9%25E3%2581%25AE%25E7%25BD%25AA%25E3%2582%2592%25E8%2583%258C%25E8%25B2%25A0%25E3%2581%25A3%25E3%2581%25A6_news

 

ユダヤ人と近代美術→https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%9C%80%E5%BA%9C%E5%AF%BA-%E5%8F%B8/dp/4334039014

(画像はすべてヒトラー・チルドレンからの引用です。)

【絵を〈描く〉ことも〈見る〉ことも禁じてきた民の〈美術をめぐる静かな闘争〉】

ユダヤ人と近代美術ー絵を〈描く〉ことも〈見る〉ことも禁じてきた民の〈美術をめぐる静かな闘争〉】

 

おおう、こんなにも、いまわたしの知りたい内容の本が他にあるだろうか!

 

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わたしはずっと、アートを観るときに作家と宗教の関係性を最も気にしています。

 

なぜなら、カトリックの教育を受けていた期間がとても長い人生を送ってきたから。

 

わたしの【美】に対するベースの考え方は【偶像崇拝】。

天使の絵とかマリア像とか、そういう形あるものに信仰を感じ、美意識へと落とし込んでいった幼少期を過ごしました。

 

だけど現代アートの仕組みを作ったユダヤ人の宗教は【偶像崇拝禁止】なわけで。

 

『何もないところに神を感じるって、どうすればそんな精神性が育つの??』

 

と、思春期くらいまでは彼らの脳内で何が起きているのか全く理解できず、いつも【?】って感じだったし、抽象絵画もサッパリ琴線に響かなかった。

 

だけど、十代も後半になりカトリックの教育から抜け出して様々な人と関わっていくなかで、

『ああ、何もないところに美を感じるって、わたしにもできるんだ。』

と思う出来事が沢山あった。

 

そしてやがて、抽象表現の美術作品も大好きになったのです。

(ただ、理解できるようになったというだけで、自分が表現する側になった場合は別。
わたしはやはり、形あるものからしか創造するエネルギーを得ることはできません。
これこそが、宗教からくるアイデンティティなんですよねえ。)

 

日本では、宗教とアイデンティティを結びつけて自分を表現することがなかなか難しい空気だと思う。

 

そんな空気感のなか、なんとな〜く宗教やアイデンティティを曖昧にすることから生まれる『人間関係の危うさ』が蔓延してるんじゃないか??

 

衝突しないことは確かに大事だけど、『自分自身はこういう人間です』という意思表明をやらなかったせいで誰かに地雷を踏まれたら、それこそ大事故じゃん??
(しょっちゅうみるよね、こういう光景…。)

 

今回わたしがいいたいのは、なにも信仰の話だけではない。

いつも自分の周りに当たり前に存在している家族や友達や親や恋人や仲間たち。

 

どんなに気心知れた仲であっても、
『自分には到底理解できないかもしれない何か』が、お互いの心の底のほうに存在してるんだってこと。

 

それをしっかり見つめ、そして時間をかけて理解し、互いに許容していくこと、わたしはちゃんとできてるかな?って。

わたしは毎日、絵や仕事を通して自分に問いかけています。

 

芸術を学ぶ上でもそう。
時間をかけて学び、人生経験を重ねて作品と作家を深く理解していくことにこそ意味がある。

 

芸術が抱えている最も大切な役割は、『相互理解』と『世界平和』だって、小学生のときからずっと信じて疑ったことはないのです。

 

なので、ユダヤ教プロテスタントについてもっと勉強したいし、最近は法華経仏教神道も興味がある。

 

(宮崎賢治はキリスト教を用いて銀河鉄道の夜を書いたけど、彼自身は法華経を熱心に信仰していた。
宗教に共通点はつきものなのです。)

 

これだけ宗派がバラバラに分かれてしまって、宗教戦争も絶えない世界に生きてるけど、根っこの部分ではすべて繋がっているんだから。

 

わたしは、違いをあぶり出して憎しみ合うのではなく、共通点を見出して愛し合う人生を貫きたいよ。

なんで『マイノリティ』という言葉をつかうのか。

先日、ポリアモリーを実践している友人にこんなメッセージをもらった。

 

簡潔にいえば、『自分のことをマイノリティと分類するのに違和感がある』という話。

 

それはわたしもすごく同意した。

だって、ポリアモリーの性質や関係というのは自分のなかから自然に立ち上がってきたものに過ぎない。

それが多数派か少数派かなんて気にするのは、本来非常にナンセンスなことだ。

 

…だけど、

わたしは仕事上、たくさんの人間のたくさんの弱さに向き合わなきゃいけない。

その弱さをお客さんと一緒に乗り越えていくためには、

『マイノリティとして受けた仕打ちにより傷ついた心をいかに乗り越え、振る舞っていくのか。』

というテーマにいやでも向き合わなければいけないのだ。

 

なので、

わたしは自分をマイノリティとは思っていないながらも、そう表明したほうがたくさんの人と繋がりやすい。

または、円滑に関係を築いていきやすい、円滑に仕事も進みやすい。

 

だから表明することにしている。

 

要するに、わたしのこの振る舞いは

『社会や他人に対する責任としてのマイノリティの表明』

なんだと思う。

 

(あとは、単純にポリアモリーの人がもっと自分から手を挙げてくれる社会になったらきっと楽しくなるだろうなってワクワクしてるよ。)

 

 

【嫉妬心】が欠如しているわたしの心。

今日は嫉妬心について書いていこうと思います。

 

主に恋愛に関する嫉妬についてなのですが、実はわたし、ほとんど嫉妬という感情を味わったことなく生きてきました。

 

ただ、例外として10年ほど前に嫉妬心のようなものを感じる恋愛をしていたのですが、いま思うとそれは『独占欲』に近かった。

 

なぜ独占欲が出てきてしまったのかというと、その同時、家族のなかで最も愛していた父親を亡くしたから。

 

大切な人が自分から遠ざかってしまう不安や寂しさから、恋愛対象の人物に対して独占欲をむき出しにして、自分のそばにずっといてほしいという無茶なお願いばかりしてしまっていました。

 

でも、それ以来わたしは独占欲も嫉妬心も感じることはなく大人になりました。

 

自分に嫉妬心がないということに気づいたのは四年前くらい。

夫と結婚して一緒に暮らし始めた直後でした。

 

ある日、部屋の整理をしていたら夫のCD-ROM の束が目に入り、何気なくみてみたら怪しいものがあったんです。

なんと、CD-ROM の表紙に女性の名前がかいてある!!

 

しかも、それは彼の元カノ。(わたしは元カノの名前を知っていたのです。)

これはもう見るしかないでしょう。笑

 

で、ちょっとドキドキしつつ中身をみてみると…

 

そこにあったのは、大学生のころの初々しい彼と彼の恋人。

 

近場でちょっとした旅行に行ったときの写真らしく、学生らしい素朴なデートってかんじでした。

 

彼が彼女を撮ったり、彼女が彼を撮ったり。

 

その写真から、二人がとても穏やかにお互いを愛している様子が伝わってくるようで…

 

わたしは、『ああ、人を愛するって本当に美しいことだな。』と、

嫉妬するどころか暖かい感動を覚えたのです。

 

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いま思えば、このとき、わたしは自分がポリアモリー的性質を持った人間だと気づいた瞬間だったのかもしれない。

 

行動や結果、または周りからの評価がどうであれ、人が人を愛する心そのものが美しいと思う。

 

その美しさを断罪したり、無理やり引き裂いてしまう権利は誰にもないということ。

 

わたしはそう思うのです。

 

だから、わたしは夫に好きな人ができたらぜひ応援したいのだけど…。

 

夫は、わたしに男の恋人ができるのは絶対に嫌なようです。ザンネーン。

 

 

女は本能で人を愛し、男は経験でしか人を愛せない。

昨日のわたしのブログ記事を読んだからなのか、夫からこんなレスポンスがきました。

http://www.men-joy.jp/archives/41703

 

要は、

『女は本能的に人を愛せる生き物だが、男に本能的に備わってるのは性欲であり愛ではない。』

 

『だけど、男も母親に愛された記憶によって人を愛することを経験で学ぶことができる』

 

ってことですね。

 

これはわたしも概ね理解できるというか、確かにそうでしょうね。って思った。

 

わたしと夫の関係でいえば、

まずわたしが夫を一方的に愛していて、恐ろしいことに5年弱片思いをしていたんです。

 

で、そんなわたしの健気な思いにやっと気づいた夫が、付き合おうと言ってくれたんですね。(しかもその1ヶ月後にはプロポーズされた。)

 

わたしは夫を発見したその日から、直感で『わたしはこの人と結婚すべきだし、この人もわたしと結婚すれば幸せになれる。』と思っていた。

 

これは、希望という領域を超えて確信にも近いものがありましたね。

 

これが、女が本来持ち合わせている能力であり、『ひとを愛する本能』なのかもしれません。

 

一方、夫はわたしが彼に思いを寄せている初期のころは全くわたしのことなど興味がなかったようで。

 

5年弱という月日の中で共に経験したこと、わたしが秘めていた思い、などを経験的に理解したときにはじめてわたしのことを『愛している』と思ったのかもしれない。

 

きっと、わたしたちは生物学的にかなり両極端な『男』と『女』なんだろう。

 

だからこそ理解不能なことや意見の相違が起きるのはしょっちゅう。

でも、だからこそ根底では『似た者同士』だと認識してる。

 

(夫のことを口うるさく責め立てがちなわたしですが、なんだかんだ結婚相手として彼以上に相応しいひとはいないと思っているんですよ?

自分の本能よりも優れた判断基準なんて、この世に存在していないと確信を持っていますから。)

愛の所在

人間にとって、『美』は『生きていていいという承認』なのかもしれない。

ならば『美術』は、『生きることを承認するための術』なのだろうか。

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植物を見ているといつも羨ましい気持ちになる。

ただ与えられた場所で生まれ、ただ太陽に向かって懸命に生き、時がくれば何も傷つけることなく姿を消していく。

 

わたしは、神様に『来世は植物に生まれさせてください。』といつも祈って眠っている。

 

わたしが幸福感を感じるときは、

①植物の絵を描いてるとき
②仕事してるとき

であり、逆にネガティヴになるのは

①家族といるとき
②大勢のひとと一緒にいるとき

です。

  

精神的なストレスがマックスになるとわたしは不整脈になるみたいで、つい半月前くらいはしょっちゅう心臓が不規則に動いててこのまま死ぬんかなと思っていた。

ある程度夫にぶっちゃけて、いまは大丈夫だけど。

わたしにとって夫というのは、ただ単に愛してるから一緒にいるのではない。

わたしの人生に必要だと、本能的に判断したから愛している。

 

夫はとても真面目で責任感が強く理性的な人間だ。

 

だからわたしにもそれを求めてくるし、多かれ少なかれ、わたしにもそのような気質を感じ取ったから結婚したのだろう。

 

たが、この間夫にはっきりと、

 

『きみが本当に信用に値する人間なのか分からなくなってきた。

でも、僕はきみと成長していきたいと思っているので、きみの心身や行動が未熟なら僕の責任でもある。』

 

と言われたのだ。

 

わたしは、傷つくのを通り越して憤っていた。

 

あくまでも、わたしと夫は別々の人間だ。

わたしがどこで何をしようが、たとえ誰を傷つけ誰に傷つけられようが、それはわたしの問題であり彼の責任なんかではない。

 

こんなに近しい関係を求められるなんてあまりにも苦しすぎる、と、本能的に思ってしまったのだ。

 

そして最後に、もっとも衝撃を受けた夫の一言。

 

『正直、愛というものを僕はよくわかっていないんだよ。本当にあるのかな?』

 

わたしは、愛というのはこの世の何よりもはじめに存在しているものであり、そこからありとあらゆるものごとが生まれたと信じて疑ったことがない。

 

わたしの世界にはまず愛があった。

その世界のなかでわたしは夫を愛したのだ。

 

だが、一方で夫の世界には愛なんてないのかもしれないのだ。

 

 

 

 

 

美容の仕事とマイノリティの関係。

最近、性的マイノリティについて色々と調べ記事を書いているわたし。

だけど、ある日いきなり興味を持ったわけではありません。

 

わたしがやっている、メイクや小顔矯正の仕事。

この仕事に携わっていると、『マイノリティ』の問題に真正面からぶつかることが多々あります。

 

そもそも、なんで人は『美しくなりたい』と思うのか?

 それは、逆説的にいえば『自分が美しくない』からに他ならない。

 

自分の中の美的価値観と、現実の自分の容姿が一体化していればそんな悩みは生まれないわけで。

 その悩みが生まれる原因の1つが、

『マイノリティを認めずに規範的な美的価値を強要する社会の雰囲気』

なんだと思う。

 

日本は、この時代になっても全体主義の国だから。

 

『個=一人の人間』よりもさきに、優先されるべき『全体=コミュニティ』がある。

 大企業の社員なんてまさにそれ。

個を滅して会社に尽くせる人間でないと、出世はできない。

 

家族の問題でもそうだよね。

いまだに結婚して子供がいる女性が快適に働けないのも、

『コミュニティに帰属する個』

という考えかたを日本人が捨てきれないから。

 

で、この延長上に容姿の問題もある。

 『規範的な美人』に生まれなかったから、『自分は美しくない』と思ってしまう。

 「社会から求められている理想と自分は違う。だったらもう死んでしまいたい。」

 そういうふうに思ってる女の子がたくさんいるってことも、仕事を通して痛いほど知ってきました。

 

特に男性が理解するのは難しいかもしれないけれど、
女性にとって、『美しくない』というのは『死』にも匹敵する大問題なんです。

 自分は美しくない人間。そんなことを考える自分の心も、容姿と同じに美しくない。

 

人間は、自分の心まで否定したらもう終わりだね。

 

どうやって生きていけっていうんだろう?

 

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わたしは少女のころからかなり自分勝手で、コミュニティの規律を乱しまくって生きてきたから…

そういう全体主義に絡め取られないで、自由きままに生きてこれたんだけど。

 

でも自分のお客さんと関わっていると、本当にこの社会で自尊心を持って生きることの大変さに向き合わざるを得ない。

 性的マイノリティの話だけじゃなく、人間って、ほんとはみんな多かれ少なかれマイノリティなんですよ。


一般論とは違う意見を持ってる。

 

親には言えないような独特な趣味がある。

 

自分が属するコミュニティの人たちとうまく話ができない。。。


そんなこと、誰だって経験があるものです。

だからみんな抱えてる問題は同じだということ。

そのことに気づいて、少しでも、目の前にいる人の気持ちに寄り添って生きる。

 

そんな姿勢を持ち合わせて生きる人が増えたら、

きっと、いままさに苦しんでいる人がもう少し長く生きられるかもしれません。

わたしが自分で作っていきたいと思う社会は、そんなかんじかなあ。

 

…わたしは別に、容姿で悩んだことがあまりなくて。

その点に関してはとてもラッキーな人生だったのだけど、だからこそ無知であり、人を傷つけてしまうことがたくさんありました。

 

そんな、女性に対する同情心の薄いわたしを変えてくれたのが美容の仕事であり、
現在進行形で成長させてくれているのが、わたしの大切なお客さんたちです。


そして、わたしには絶対に守りたい信念があります。

 

それは、

 

①『誰に対しても自分を偽らず、隠さないで生き、仕事をすること。』

 

②『世界中の誰に対しても…たとえ一生会うことがない人に対しても自分をオープンにすること。

具体的には、インターネットを通してわたしの文章に触れ、わたしという人間のことを知る機会を誰にでも開いておくこと。』

 

この2つが守れないようでは、自分のテリトリーに人を招き入れて金銭をいただく資格はないと思う。

 いままでの甘えた自分への戒めも込めて、ここに示しておきます。

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わたしは、自分で仕事を起こして一年ちょっと。

 

技術者としても経営者としても、まだまだひよっこも甚だしい。

でも、気持ちだけは確かにあるということをしっかりと残しておこうと思い文章化しました。

 

最近、色々なことが重なってエモーショナルな話ばっかりで…周りの人を疲れさすかな、とも思うのだけど。

(疲れさしちゃった人、本当にごめん。)

 

でも、やっぱりなにより、こういうことが人生で一番大切だという意志は変えられない。


そんなわたしに同意してくれる人がいるなら、ぜひ大切なことをちゃんと話し合っていきましょう。

 

みなさん、今後ともよろしくお願いいたします。