読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

男はひたすら視覚のなかで生きている?

最近仲良くなった人に教えてもらった詩人・文月悠光さんのエッセイがたまげるくらい面白かったのでご紹介します。

 

一体なんなんだろう。この鋭い感性と表現力は。

女性詩人としてセクハラまがいの言葉を投げかけられる一方で、そのことに対する戸惑いや憤りを捉える覚めた視点。そして客観性。

若くして世にでる天才とはまさに彼女のような人のことを言うのだなと、その才能に感服してしまった。

文月さんの魅力をとりあえず誰かに伝えたかったわたしは、手始めに夫にこのエッセイのリンクを送りつけてみた。

 

するとこんな回答が。

 

『面白い。

プラトンは詩を最高の芸術と位置付けた。

グリーンバーグ(※近代美術の重要な批評家)はそんな詩に対して絵画を確固とした芸術として成り立たせようと奮闘した形跡がある。

物語と絵画を頑なに切り離そうとしたのには文学から脅かされる視覚芸術というユダヤ人としてのグリーンバーグの内的葛藤があったんだと思う。』


ふむ。なかなか興味深い返しだと思った。

そういえば芸大にいたころによく感じたのは、結構な数の学生が言葉に対してコンプレックスを抱えていたこと。

 

「わたしは言葉にできないものを絵にして表現しているんです!」

とか、

「絵を言葉で説明するのはナンセンスだ!」

という、頑なに絵と言葉を切り離したがる風潮というのはなかなか根深かった。

『絵は絵として独立した存在であり、そこに言葉は不要だ』という神話がまかり通っていたのである。


ちなみに、わたしはこの神話についてはかなり懐疑的だった。

絵画は観るだけで十分理解される、と作者がのたまったところで、鑑賞者であるわたしは全くその絵が理解できなかったから。


なのでわたしは、学生時代から自分の作品の解説に詩を引用したりと、割と積極的に言葉と親しんできた。

(だからこそ、いまもこうやって日々ブログを綴っていたり、接客業でお客さんとぺちゃくちゃとお喋りすることでお金を得られているわけで。
意外とすべてはつながっているんです。)


口下手であったり、人と言葉でコミュニケーションをうまくとれないコンプレックスのなかで育った人が、絵画という視覚芸術に傾倒することはよくあることだ。


だから少し乱暴な言い方をすれば、絵画とは『言葉でコミュニケーションを取ることができなかった弱者のための芸術』と捉えることもできる。

何と言っても、この世の中で最も普遍的に使われ続けているコミュニケーションツールは言葉なのだから。

言葉が拙ければ、コミュニティから疎外されてしまうことはどんな人にも起こりうる危機だ。


だからこそ、わたしは言葉を生業としている人には頭が上がらないというか、どこか表現者として敵わない、という劣等感がある。

それはまさに、グリーンバーグが感じていた危機感と同じなのではないだろうか?


------------

最後に、夫はもう1つこんな言葉をなげかけてきた。


『男は視覚の生き物だから絵画や写真の方が惹かれるんだよ。

視覚の中でひたすら生きている。』


男が全てそうであるわけはないと思うが、彼が想定している《男》というのはそういう生き物らしい。

 

この言葉を聞いて、ふと自分の恋愛遍歴を思った。

わたしはもともとバイセクシャルで、十代のころから男性とも女性とも肉体関係を自然ともっていた。

 

しかし、20歳のころから夫と結婚するまでは、男性のみと恋愛をすると決めて実行していた期間があった。

 

色々な男と寝てみるのも若いうちにできる貴重な経験だと思っていたから、言い寄ってくる男とはとりあえずセックスを試みた。

そして、わたしは男性に大いに失望した。

 

どいつもこいつも、わたしの外見しか見ていない。
わたしのどこが好きなのかと聞くと、顔が美しいとか、色が白いとか、体が綺麗だとか、そんなことしか言わないのだ。

たとえ短期間で肉体関係を持つようになるとしても、女性はこんなに無神経ではない。外見について褒めつつも、必ず内面も同じくらい褒めてくれる。

少なくとも、わたしが関係をもってきた女性はみんなそうだった。

(だから関係が終わってしまったあとでも、わたしは彼女たちが大好きだ。
その一方で、別れた男たちとはあまり会いたいとも思わない。この溝はなかなか深い。)


男は視覚的な生き物ゆえに、良かれと思った言葉で女性を虐げていることもあるのだ。

もてたい男性のみなさん、よかったらご参考に。